【11434文字自己紹介】IKUMAってどんな人?生まれてから今まで

どうも、喜多生馬と申します。

1990年生まれ。三重県在住。会社員をやりながら、個人でコーチング、ネットショプの経営をやっている一児のパパです。

今でこそ、望んだ人生を生きて、創りたい現実を創ってQOL高く生きられている実感がありますが、今までの人生は決して順風満帆ではなく、いろんな事がありました。

大学生のときに就活中に人生に絶望して世界一周。就職して起業しようとしたけど失敗、工場で働くも2ヶ月で辞める。
ビジネスの失敗や自己投資で100万円以上の借金を背負った時もありました。

そんな僕の今までの人生を振り返ってみようと思います。

幼少期

三重県尾鷲市という人口2万人ぐらいの町に生まれる。5分も歩けば海に行けるような魚が美味しい港町。

幼稚園のときに親の転勤で、三重県の四日市市に引っ越し。すごい人見知りで引っ込み思案だったと思う。

みんな小さいときの話するけど、ほとんど覚えてないんだよなあ。

小学生

親がインフラ系の大手の会社に努めていたこともあり、サラリーマン家庭としては割と裕福な家に育ったと思う。

ハワイ、オーストラリア、バリ島、ドバイなどなど、何年かに一回は家族で海外旅行に行っていた。このときの影響で今も海外に行くのが好きなのかもしれない。

小学校二年生のときに同じ社宅に住んでいた人の影響でサッカーを始める。

最初は全然楽しくなかった。監督が怖くて、ミスをして怒られるのが嫌で、足が痛いだなんだと何かと理由をつけて試合や練習をサボっていた。

父親も怖かったから、普段から大人に怒られないようにと色々と考えていた。こういう人が近くにいたから今も割と要領がいいほうなんだと思う。

サッカーが楽しくなったのは5年生ぐらいになってから。相変わらず監督は怖かったけど、上手くなっていくのが嬉しくて学校から家に帰って荷物をおいたらソッコーで用意して学校に行って練習していたし、休みの日も毎日サッカー。

こんなに毎日楽しく練習しているもんだからどんどん上手くなって、地域の選抜とかにも選ばれるようになったりしてサッカーが楽しくてしょうがなかった。

6年生になってキャプテンを任された。人は役割を与えられるとそれにふさわしい人で在ろうとするもので、より一層練習に励んだし、試合中も練習中も声を出して盛り上げたし、チームの誰よりも練習したし努力した。

チームとしても、どんな大会に出ても基本は優勝。Jリーグの下部組織のチームとも対等に戦えるようになったし、最高で三重県で2位の成績を残すことができた。

サッカーは楽しかったけど、学校は楽しくなかった。いじめられたこともあったし、授業も楽しくないし、先生も嫌いだったから行きたくなかった。

そんな僕が腐らずにいれたのはサッカーがあったから。学校でのいじめやブラック労働で自殺している人がいるのはそこだけが自分の世界だと思っているからだと思う。

死ぬほど辛いならいかなくてもいいし、やらなくてもいい。僕らには常に沢山の選択肢がある。

なのに、それに気づかず自分が今いる世界だけがすべてのように思ってしまうと、クラスに馴染めないだけで世界から拒絶されたように感じてしまうし、今の仕事についていけないと自分はこの社会で生きていけないんだと思ってしまう。

どんな人でも絶対に生きていける場所がある。いつでもたくさんの選択肢があるし、自分の人生はいつでも自分で選べる。

中学校

あまり素行のいい学校でもなかったので、少しやんちゃしだす。

タバコを吸いだしたのもこのころ。公園で20人ぐらいで酒盛りをしていて学校に通報されて先生が来たこともあった。

授業もあまり聞いていなかったし勉強もしていなかったけど要領だけは良かったものだから、好きな教科のテストだけは点が取れていた。今でも覚えているが、数学のテストで中間テストも、実力テストも、期末テストもすべて90点台だったのに成績が5段階評価の3だったことがある。

成績表には4つの欄があって、一番上に「関心・意欲・態度」と書かれていて、それが最低評価であとの3つが最高評価だった。だから、僕よりも点数が低くても授業を聞いているヤツのほうが成績が良かった。

体育も好きだった。サッカーやっていたから体力もあって、短距離も中距離もクラスで一番早かった。なのに成績は2がついたこともあった。

流石にムカついて理由を聞きに行ったら「授業態度が悪い」とか「登校時にヘルメットをかぶっていない」とか言われた。(さすがに先生頭悪すぎない?)

学校というのは実力は評価されず、結局先生に気に入られることのほうが大事だということがわかり、なおさら先生が嫌いになった。

それでもサッカーだけは真面目にやっていた。このころは学校の部活ではなく、クラブチームに入っていて、小学生の時ほど強くはなかったが、三重県でベスト4には入ったこともあった。

中3といえば高校受験。先生に気に入られることが大事だという学校のシステムが嫌いすぎて、勉強する気が起きなかったので、勉強せずに入れるところを受験した。

受験した学校は普通にやれば余裕で合格できるようなところだったので、受験当日に39度の熱があったけど(後にインフルエンザだとわかった)普通に合格した。

高校

高校で初めて部活というものに入った。

先輩後輩関係がしっかりあって、一年生がすべて準備と片づけをする。1年生が試合で忘れ物をしたり、準備が遅かったりすると連帯責任で走らされたりした。

決して強い高校じゃなかったが、サッカーは楽しかった。特に一番楽しかったのは3年生になってから。

僕は先輩がいる環境でサッカーをするとあまり伸びないらしい。小学校のころも6年生のときが一番うまくなったし、高校でも1年生はほとんど試合に出られなかったし、二年生でもずっとレギュラーを確保できていたわけではなかった。

ただ3年生になってからめちゃくちゃうまくなった(自分で言う)。
いくつかの大学からも声をかけてもらったし、相手チームからもとにかくあいつだけ気をつけろみたいになっていた・・・と思う。

これは小さい頃からの怒られないようにしようというのが影響しているんだと思う。怒られないようにしようと思うとミスをしないように消極的なプレーになってしまう。今もアレコレ決められている場にいるよりも、ある程度自由な環境にいたほうが成果が出せる。

そうそう。僕は昔からずーっとガリガリでいくら食べても全く太れなかった。それがずっとコンプレックスで、とにかく太りたかった。なんならデブに憧れた。

「最近太ってきたしそろそろダイエットしないとな〜」というセリフを言ってみたかった。

だから、毎日学校に弁当を2つ持っていって、夜はどんぶりでご飯食べて、寝る前にカップラーメンを3つ食べたり、「とにかくカロリーを!」と、あらゆる食べ物にマヨネーズを大量にかけたりしていた。一緒に御飯を食べる友人が引くほど食べていた。エンゲル係数半端なかったと思う。

それでも一切太れなかった。

その時のガリガリというコンプレックスが、今の筋トレ好きにつながっているのは間違いない。

そういえば高校では成績が良かった。

多分授業態度はいい方ではなかったと思うが、先生はテストの成績をきちんと評価してくれていた。学年で一桁ぐらいの成績だった(めちゃくちゃ頭の悪い学校だけど)

3年の進路を決める際には、受験する人はほとんどおらず半分ぐらいは就職で、残り半分は推薦で大学か専門学校に進学していて、僕も例にもれず推薦で理系の大学に進学することにした。

高校は文型だったけど、営業職はノルマの達成が厳しそうというイメージと、人見知りで営業とか向いてなさそうなこと、親がエンジニアだったこともあって理系の大学に進むことにした(文系=営業というイメージだった)

高校での成績はいいし、部活も一生懸命やっていたから先生からの評判は割と良かったと思う。(一度だけバイで駅に向かっている時に先生とすれ違って謹慎になったけど)

だから普通に推薦が通って、大学への進学が決定した。

夢のキャンパスライフの始まり!!!!サークル入って毎週のようにお酒飲んで合宿に行ったりするのかな〜〜〜〜〜

大学

大学は愛知県にあったが、片道2時間以上かけて通うことにした。この頃は地元大好きで地元から離れることが考えられなくて下宿はしなかった。

理系ということもあって、クラスは120人ぐらいいたけど、女子は一人だけだった。

うん、まあこれは想定内。大学選ぶときに理系だけじゃなくて、他の学科もある大学を選んでいるから問題ない。

「総合政策」とかいう何をやってるのか、その学科の先生でさえもうまく説明できなさそうな学科の女子と仲良くなって合コンしたりする予定だから、問題ない。

・・・ハズだったが、通学に片道2時間、あとはバイトばかりしていたから結局他の学科の子とは仲良くなることはなく、キャンパスの木の下でりんごを食べていて、手が滑って落として可愛い女子に拾ってもらうこともなかった。

大学は俗に言うFラン大学だったが授業にもほとんど出ず、成績は120人ぐらいいた中でケツから2番目
ちなみに入学してから一回も学校に来てないやつが一人いたらしい(ということは実質・・・)

でもそこは持ち前の要領の良さを生かしてなんとか単位をとっていった
大学生活もそれなりに楽しかったけど、今までのサッカーみたいに自分を使い切るみたいな感覚になれるものは一つもなかった。

バイトしてパチンコして遊んでお酒飲んで・・みたいなクソみたいな生活を送っていた。

ほんとーーーに薄っぺらい大学生活を過ごして、3年の冬、就職活動が解禁されて当たり前のように就職活動を始めた。

別にやりたいこともなかったから、無難に大手企業をいくつか受けて、結構大きな会社の最終面接に進んだ。

この日が人生の大きな転機になる。

ゴールデンウィーク前のやたらと暑い日だった。電車で面接会場に向かう途中、なんとなく将来のことを考えていた。

「今日の面接に受かったらあと来年の4月まで遊んで、就職して、40年ぐらい働いて・・・」

そんな事を考えていたら「本当ににそれでいいのか?」と初めて自分の人生について本気で考えだした。答えが出ないまま面接を受けた。

面接は普通にこなして、最終面接が集団面接だったため、一緒に受けた人たちと駅に向かって歩いていた。

クソ暑い中、5〜6人が全身真っ黒のスーツで歩いているその姿がビルの窓に写ったときに一気に恐怖が襲ってきた。

「このままじゃあかん・・」直感でそう思った。

完全に思考放棄して、周りに合わせてなんとなく就職活動をしていた。一回きりの人生。悔いのないように自分のやりたいことをやろう!

そう決めた。家に帰ってから、初めて自分の人生について真剣に考えた。

まず最初に決めたのは、就職活動をやめるということだった。

昔から海外に憧れがあったからとりあえず留学でもしようかと考えたけど、別に留学したいわけでもなかった。自分のやりたいことをやろうと決めたんだから、やりたくないことはやらない。

とりあえず行きたいところに行ってみようと思って、100均で世界地図を買って来て、行きたい場所をピックアップした。

へー、ウユニ塩湖とマチュピチュって近いんや。
ウチの親が新婚旅行でエジプト行ってめっちゃ良かったって何回も話してたな〜。
東南アジアも物価安いって聞くし楽しそう。
ヨーロッパも行きたいなー!・・・・

行きたいところがありすぎる。でもこれ全部行ったらもう世界一周やん。

「いくらいんねん・・・ホテル代だけでもハンパないし、そもそも世界一周とかリタイアした社長とかが行くやつやろ」

なかなか思う通りには行かんな〜なんて思いながらネットで調べてみると、世間にはバックパッカーというリュックひとつで旅をしている人がいることを知った。

泊まると言えばホテルしかないと思っていたけど、安い宿は世界中どこでもあって、東南アジアとかだと500円とかで泊まれるらしい。

これだ!と思い、就職せずにバックパッカーで世界一周することに決めた

親に今後のキャリアについて相談した。

「就職せずに世界一周するわ」

相談というか報告。

うちの親はおカタイ仕事だけどこういうことにはすごく寛容で一切止めることなく、「ええやん」と背中を押してくれた。

僕には2つ下の妹がいるのだけど、こんな親に育ててもらったものだから、妹もずっと海外で生活している。
多分日本でまともに就職したことはなくて、海外でネイリストとして働いていて、いくつもの国を移動している。

出発は次の年の4月に決めた。やることが決まったら、あとは必要なものを準備していくだけ。
こうやって、やることと日にちを先に決めてしまって、それに合わせて準備をしていくのは今も変わっていないスタイル。

とにかく必要なのはお金。このとき貯金は一切なかったから時給の高いパチンコ屋でひたすらバイトした。正月もシフトを入れて、年が明ける瞬間もパチンコ屋で働いて、大学に行きながらサラリーマンぐらいの給料は毎月稼いでいた。

なんとか資金が貯まり、同い年の友人たちが社会人としての第一歩を踏み出したと同時に僕は世界一周の旅に出発した。

世界一周

海外には何度か行ったことがあったけど一人で行くのは初めてだった。

出発のときは地元の友人や当時付き合っていた彼女(今の奥さん)が見送りに来てくれた。

最初の目的地はタイのバンコク。バックパッカーの聖地とも呼ばれるカオサンロードに行けば、安宿がいくつも点在しているからすぐに見つかるというネットの情報を鵜呑みにして予約しなかった。

「予約しないのがバックパッカーだぜ!」ぐらいに思っていた。もうこの時点で在り方だけはバックパッカーだった。

出発するときはこれからどんな物語が待っているんだろうかとワクワクが9割不安が1割だった。

そしてタイの空港に降り立った瞬間不安が10割になった。

英語も喋れない、宿も予約してない、タクシーの乗り方もわからない。適当にタクシーなんかに乗ろうものならどこかに連れて行かれて身ぐるみ剥がされると本気で思っていた。

とは言え、移動しないとしょうがないので、空港で「地球の歩き方」を開きながらタクシーの乗り方を調べて乗った。

カオサンについたのはいいけど、日本から来たときと同じ格好でいたから、そこそこの厚着で前後にトータル20kg超えのリュックを持っていたので汗だくだった。宿らしきところはたしかにいっぱいあるんだけど、どこに行けばいいのかわからず、1時間ぐらい汗だくでデカい荷物を持ってカオサン周辺を行ったり来たりした。

ウロウロしていたらバックパッカーの日本人を見つけて、色々と教えてもらって、なんとか今日泊まれる宿を見つけることができた。

・・・と、旅のことを話していたら、いつまで立っても話が終わらないので、またどこか別のところで話します。

ざっくりと、
東南アジアで旅に慣れて、
英語を学びたいと思ってフィリピンに留学して、
インドでカルチャーショックを受けまくり、
中東でもカルチャーショックを受けて、
ヨーロッパで物価の高さに毎日白目をむきながら生活し、
旅中に出会った人たちとアメリカを車で横断して、
南米でお金、パスポート、カメラ、パソコンなどが入った荷物を全部盗まれて、、、

という感じで約一年をかけて、世界一周。
この旅で訪れた国は24カ国。

世界一周で学んだことはたくさんあるが、一番大きなことは
「なんでもやってみないとわからないし、大抵のことはやればできるようになる」ということ。

世界一周に行く前には、大学の先生や周りの人から、
「新卒捨てるのもったいないから、せめて就職して3年働いてからにしなよ」
「行って何になるの?」
「将来どうするの?」
「大学院に行きながら休みを利用していけばいい」
「危ないよ」
「早く働いて生活安定させたほうがいいよ」

という本当に心配してのアドバイスなのか、なんなのかわからない言葉もたくさんもらった。

こういうことを言われて「世界一周なんて自分にはできないかも」と不安になったり、「やっぱり新卒で就職して3年働いてから行ったほうがいいのかな」と心が動きかけたことも0ではなかった。

それでも自分の心の声に正直に、「できるかどうか」じゃなくて、「やりたいかどうか」で決めた。

実際に旅を始めたら、お金の管理、宿のとり方、最低限の英語などは勝手に身につくし、ある程度のトラブルもなんとかなる。かばんを全部盗まれて、パスポート、カメラ、PCがなくなってもどうにかなった。どうにかなった、というかどうにかした。

その後の人生だって、キツいときもあったけどなんとかなってきたし、今が人生で一番楽しいという状態を更新し続けている。今は最高だし、これからもっと良くなると確信している。

しかも、“ありがたいアドバイスをくださった方々”は世界一周に行ったこともチャレンジして失敗したわけでもない人たちだった。自分がなにかに挑戦しようとしているときにそれをとめようとするのはいつだって「やったことがない人たち」だ。

このときの僕の背中を押してくれたのは、世界一周に行くことを肯定してくれた人や、ブログやSNSで旅のことを発信してくれていた人たちだった。

そうやってもらったバトンを次は僕が、当時の僕と同じように、「やりたいけどなにかの理由でできていない人」に渡し、創りたい人生を創っていくサポートをする。

自分の心の声に正直にやりたいことをやる、“自分の人生を生きる人を増やす”ということをしたいと思うようになった。

旅の途中でお金が原因であきらめた場所やアクティビティがたくさんあって悔しい思いをしたし、人のやりたいことを応援するためにも、自分がもっと学びたいし、自分の思いを実現するためにまずお金が稼げるようになりたい。

このころから会社員じゃなくていつかは独立したいと思い始めるようになった。

一社目

帰国してとりあえず給料のいい会社に就職した。

旅に出る前は新卒が〜とかいろいろ考えていたけど、今は全然考えが違う。どうせ独立起業するから、給料のいいところで働いてお金をためつつ、副業でお金を稼いで食っていけるぐらいになったら会社をやめようと思っていた。

仕事内容は半導体製造の機械のメンテナンス。クリーンルームというホコリがない工場で全身真っ白の特殊な防護服みたいな服を着てマスクとゴーグルを付けて機械のメンテナンスをしていた。

説明書を見てパーツを交換したり、新しいパーツを付けたりするのだが、これが結構楽しかった。
そう言えば昔から車やバイクをイジるのは好きだった。

給料はかなり良かったけど、拘束時間が長く、月の残業が100時間を超えることもあり、自分の副業に時間を使える暇はなかった。

このままやっていても自分の将来につながっている気が全くしなかったので、退職を決めた。
入社して一年半ぐらいだった。

ニート

仕事をやめてから、自分で稼げるようになりたい!と思い、失業手当をもらいながら色々なビジネスに手を出した。

ブログ、SNS発信、せどり、YouTube、ライター、物販など、時にはネット業界の超有名人のもとでオウンドメディアの運営を一緒にやらせてもらったり、いろいろなことをやったけど稼げても数万円程度。どれも生活していけるほどのお金は稼げなかった。

お金を稼げればいいやとそこそこ高額のFXの自動売買ツールみたいなものを買ったこともあったけど完全な詐欺商品だった。

そのころは全く気づいていなかったけど、完全に稼ぐこと自体が目的になっていた。手段が目的化している状態というやつだ。

こうなると、ただただ稼げる方法論ばかり探して、少しやってみてうまくいかずにやめてまた違う方法を探す、ということを繰り返してしまう。

でもうまくいかないのは自分にあった方法が見つかっていないからだと思っていた。そのうちいい方法に巡り合って、稼げるようになるんだろうなぐらいに考えていた。

退職したときには貯金はあったが、キューバに一ヶ月ぐらい行ったり、自己投資としてセミナーや勉強会に参加したり、事業投資でお金を使っていたので、貯金がなくなった。

結局、もう一度会社員として働きながら副業をすることにした。

二社目

工場とかでいいや。と思い、タイヤ工場に就職した。一日中、機械にゴムを貼り付けてタイヤを作る。頭は使わず、なにも考えずただひたすらゴムを貼り付けて機械を動かす。

とにかく毎日が苦痛でしょうがなかった。
タイヤは作るものじゃなくて、使うものだということを知った。

そんなときに旅中に出会った友人に就労支援の仕事に誘われた。
話を聞いてみると面白そうだったので、やることにしてこの会社は2ヶ月ぐらいでやめた。

三社目

就労支援の仕事は、就職困難者と呼ばれる、引きこもりや長期離職者、面接を受けても採用に結びつかない方など、何らかの原因があって働きたいけど働けない、働きたいと思っていても何をやればいいのかわからない方の支援をする仕事だ。

場所は京都。住んでいたのは三重だったが、引っ越しを決めた。仕事を紹介してくれた友人がシェアハウスをやっていたので、そのままシェアハウスに引っ越した。

これを読んでくれているあなたはこう思っているかもしれない。

「あなたも十分社会不適合者じゃない?」

そう。今までに一社目を一年半でやめて、ニートして、二社目もソッコーでやめるぐらいの社会不適合者ではある。

でも「やればできる」ということは知っていたのでがむしゃらにやった。

初めての経験で何をやったらいいのかわからない。
そもそもずっと引きこもっていて会話すらままならない人もいる。
そんな中で必要なことを伝えなければならない。

大量の本を読んで、人に会って話を聞いて、セミナーに参加して、あらゆるインプットをしてそれをわかりやすいようにコンテンツ化して、伝えた。

とにかく毎日大量のインプットとアウトプットを繰り返して、彼らが社会復帰するために必要なことを伝えていた。
必要なことは伝えていたんだけど、なかなか行動に移せなかったり、思うように結果が出ない日々が続いた。

ある日、いつものように本屋で役に立ちそうな本を探していると「コーチング」という言葉が目に入った。興味が湧いたので、何冊か本を買ってそこに書いてある内容を試してみた。

するとだんだんと来ている方たちの行動量が増えて、表情もどんどんかわっていった。

今までは就職させることが僕のミッションで、就職率という数字ばかり追いかけて、彼らが就職するために必要なことを色々伝えていたが本人たちはなかなか行動にはうつせなかった。

だがコーチングを通して、自分の口から出た言葉で就職したあとの人生を思い描いてそれを周りに共有することで、今まで伝えたスキルの必要性を認識し行動量が格段に増えていった。そうなるとみんなどんどん結果を出していく。

結局二年間この仕事に携わって、トータルで40名の就職困難者の支援をさせていただき、36名の方が就職することができた。

同じ事業をやっている事業所もいくつかあったがこれはダントツの成果だった。

コーチングともうひとつ、効果があった取り組みとして、「ストレングスファインダー」がある。

ストレングスファインダーとは、1時間ぐらいのテストを受けると自分の才能がわかる自己分析ツールみたいなもの。

僕は今ストレングスファインダーの認定コーチでもあるのだが、このときは自分で受けてみていいものだと思ったので、来ている方たちにも受けてもらってその結果を元に支援を行った。

就労支援を受けている方は何かしらの問題や悩みを抱えていて、自己肯定感が著しく低いことが多い。自己肯定感が低いので何かを伝えても「どうせ自分にはできません」となかなか行動に移せなかった。

だが、ストレングスファインダーを通して、チーム内で自分が得意で他者が苦手なことを見つけたり、自分が苦手だと思ったことを強みに変えることができたりという経験を積んでいくことで自己肯定感が格段に上がった。

これも間違いなく高い就職率を出すことに寄与した。

事業が終わった今でもたまに現状の報告をしてくれる方もいて、文字通り参加した人にとっては人生が変わるような事業だったと思う。

決して僕の成果だと言いたいんじゃなくて、正しい目的地を設定して、正しいルートを選べば、目標設定は難しいものじゃないということ。

そして、だれでもやればできるということを再認識した2年間だった。

この事業をやっている間は辛いことも多かったけど、支援した方の就職が決まる瞬間はすごく嬉しかった。

そして今までお金を稼ぐことが目的になっていたけど、本当の目的は人のやりたいことを達成するサポートをすることだということを思い出すことができた。

4社目

何度かお会いしたことのある地元の経営者の方が京都に来る機会があり、食事をした際にこれから海外での事業を始めるということでお声がけをいただき、就労支援の事業もちょうどいいタイミングだったのでジョインすることに。

今も在籍しているこの会社では、介護施設のブランディング、日本で働きたいミャンマー人とミャンマー人を雇用したい地元の企業を結ぶ仕事、日本に来たミャンマー人の日本語学校の運営をやっている。

サラリーマンの仕事とは別にコーチングを仕事として始めたいなと思い、いろいろと調べていると、ストレングスファインダーを使ったコーチングというのがあって、それを専門的に学んで認定コーチとして活動できるという情報を見つけた。

価格は90万円。交通費や宿泊費も含めると100万円を越える。

就労支援の時にコーチングとストレングスファインダーを通して、人の自己実現に大きく寄与したという経験があったことと、これを学べば自分がやりたいことが実現できると思ったが、費用の問題が・・

私生活では地元に帰るのと同時に7年付き合っていた彼女と結婚して、翌年の5月には子供が生まれるという状況だったのでお金の面での余裕は全くなかった。

そこで社長に相談し、これに参加すれば、会社にこんなメリットを提供できるということを2ヶ月ほどかけてプレゼン。

投資ということで費用を出していただき参加した。
内容も素晴らしく、本当に参加できてよかったと思うと同時に社長には感謝しかない。仕事で返します!

ストレングスファインダーの認定コーチになってから、いきなりお金を取る自信がなかったので、まずは100名に無料でコーチングを提供した。

30名ほどやってみると段々と自分のスタイルが構築されていって、経験を重ねるうちにどんどんと研ぎ澄まされていった。

そして、50名ほど終わったときぐらいから有料の提案を始め、最初は提案の仕方もよくわからず契約を取ることはできなかったが、やっていくうちに営業の仕方もブラッシュアップされていき、価値を感じていただけた方には有料でのご契約をいただけるようになった。

これから

「自分の人生を生きる人を増やす」とう思いは子供が生まれてより一層強くなった。

今、周りを見渡してみると、「仕事が嫌い」「生活やお金のために嫌々働いている」「月曜日が憂鬱」という大人がほとんどだと思う。

そして日頃のうっぷんを晴らすかのように、芸能人の不倫やインフルエンサーの言動をネット上で叩くことに自分の時間を使っている。

こんな姿を見た子供は「大人って大変だな。大人になりたくないな」と思うはずだ。

そんな大人じゃなくて、自分の心の声に正直に生きて、それが誰かのためになっているような生き方で「毎日が最高に楽しい!」と言えるような「かっこいい大人」が増えたら子ども達は「早く大人になって仕事したい!」と思うはず。

だから自分の人生を生きる大人を一人でも増やしたい。

自分の人生を生きるというのは、自分の心の声に従って生きるということ。

あなたは本当はやりたいと思っていることに蓋をしていないですか?
会社が、家族が、とやらない言い訳をして逃げていないですか?
自分には無理だと思っていないですか?

自分の創りたい人生を創るには、

「心の底からやりたいことを、正しいアプローチで、自分にあったやり方でやる」

これができれば創りたい現実は確実に創っていける。

これらをコンテンツやコーチング、YouTubeなどのSNSを通して多くの人に伝えていきたい。

 

というわけで、長文にお付き合いいただき、本当にありがとうございました!